湯気の向こうの希望

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朝の光がカーテンの隙間から差し込み、埃の舞う筋を描いている。

朝4時に眠りにつき、8時前に目覚めた私は、寝不足のまま支度を整える。

「今日も始まるか」

時間に追われる朝は、心を落ち着ける余裕を奪うものだ。

浴室に向かい、湯船に浸かる。
白い湯気が天井へと昇り、ゆらゆらと揺れて消えていく。

早朝の静けさの中で、温もりだけが確かなものに思えた。

「希望とは何か? 絶望とは何か?」

湯気の向こうで、そんな問いが浮かぶ。

私の生きるこの時代は、情報が溢れ、選択肢が広がった世界だ。

それでも、人は希望と絶望の狭間で揺れ続ける。

湯船から出て、鏡に向かう。

曇ったガラスに映る自分は、どこか他人のようだ。

「今日は良い日になる」

そう思いたい気持ちと、今日もまた厄介な一日になるという予感が入り混じる。

市電の中は混雑し、湿った空気がまとわりつく。

外を見れば、空も重たく曇っている。

「自分のことだから」

親の言葉がふと胸をよぎる。

ただの一言なのに、まるで遺言のように心に残る。

時には、そんな言葉に突き動かされたいとも思う。

職場の記憶が蘇る。

「お前、仮病じゃないだろうな」

「転職活動してないよな?」

「癲癇ってなんだよ、どうすればいいんだ?」

「最低でも2工程やれ!」

頭の中にこびりついた言葉の数々。

製品を投げつけられたこともあった。

ヘルメットの上から叩かれたこともあった。

後輩たちは次々に辞めていった。

その理由を、私は知っていた。

それでも、何もできなかった。

友人は言う。

「もう忘れろよ」

忘れる方法は?

諦めること?

自分中心になること?

自分の気持ちに正直になること?

意見を言うこと?

考えないこと?

……分からない。

今日のスケジュールを整理する。

10時から15時まで職場。

15時45分からは障がい者職業センターへ。

その後は自由時間。

15時まで仕事をして、夜は友人とラーメンを食べに行く予定だ。

特別なことではないが、それがささやかな幸福に思える。

「一日をどう生きるか」を考える前に、とにかく動く。

そうすれば、少しは楽になれる。

だが、頭の奥底で違う問いが響く。

「どうしたら生きられるのか?」

その問いは、いつも私をどこかへ導こうとする。

しかし、その先を阻むものがある。

自己否定。

社会への違和感。

積み重なるストレス。

それらはまるで重りのように私の心を沈めていく。

仕事がある。

社会がある。

逃げ場がない。

心と体は週の後半になると疲れ果て、何もかもが嫌になる。

このまま、すべてを終わらせてしまえたら楽だろうか。

そんな考えが、ふと頭をよぎる。

窓の外を見る。

曇り空の下、人々は忙しなく行き交っている。

「それでも、生きている」

理由は分からない。

ただ、私はまだここにいる。

考えることをやめた瞬間、人は停滞する。

思考を放棄し、現実を受け入れるだけの生き方に、私は「NO」と言いたい。

「希望も絶望も、人それぞれの主観でしかない」

私は「人を育てること」に情熱を注ぎたい。

それも、型にはまらない「人才育成論」で。

最初はボランティアで始めるしかない。

組織化も法人化も求めない。

ただ、私の信じる道を歩むだけだ。

A型事業所での経験が、この道の糧となるだろう。

成功ばかりが学びではない。

むしろ、失敗からこそ、本当に必要なものが見えてくる。

再び浴室の鏡を見る。

さっきよりも少し晴れやかな表情の自分がいた。

希望と絶望の境界線は、案外薄いのかもしれない。

今日という一日を、どう生きるか。

それが、今の私にできることだ。

「夢が希望になることもあれば、絶望へと変わることもある」

ならば、私の夢はどちらなのか。

答えは、まだ見えない。

だが、視点を変えれば、すべてが成長の糧となるのではないか。

そんな風に思いたい。

そして、それと同じくらい他者に誠実であることを大切にしたい。

鏡に向かって、小さく頷く。

湯気の向こうで、何かが溶けていくような気がした。

それは絶望かもしれないし、希望への道標かもしれない。

どちらにせよ、私は自分の信じる道を進む。

それが希望であり、時には絶望へと変わるとしても。

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