診察室の窓から、薄曇りの空が見えた。
白い光がぼんやりと差し込み、無機質な壁に淡い影を落としている。
「最近、どうですか?」
カウンセラーの問いかけに、指先がわずかに震える。
どう答えたらいいのか分からない。
無理に言葉を紡いでも、きっと空を切るだけだろう。
「この時間は本当に意味があるのだろうか…」
沈黙の時間が部屋の中に流れる。
その静けさが耐え難くなった時、思わず立ち上がりたくなる衝動を抑えた。
ふと、幼い頃の記憶が脳裏をよぎる。
病院の待合室で、ひたむきに患者と向き合う医者の姿を見たことがある。
言葉よりも、その眼差しがすべてを物語っていた。
「あんなふうに、自分を理解してくれる人はいるのだろうか?」
小さく息を吐く。
変わるためには、何かを始めなくてはならない。
それは分かっている。
でも、どうしたらいい?
「先生、今日は……」
言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「ちゃんと話をしたいです」
自分の声が思ったよりもはっきりと響いた。
カウンセラーは穏やかな表情で頷き、わずかに微笑んだ。
「世の中には、変えられないものと変えられるものがある」
そう切り出すと、カウンセラーは興味深そうに私を見つめた。
「信号機が赤から青に変わるのを待つように、自分の意思ではどうにもならないことがある」
これが「定数」だ。
けれど、「変数」は違う。
知識を得ること、スキルを磨くこと、選択を重ねること。
それは、確実に未来を変えていく。
「でも最近、鼻炎がひどくて…」
頭は重く、集中力も続かない。
もしこの不調がなければ、どれだけ自由に動けるだろうと考えてしまう。
カウンセラーは黙って聞いている。
「努力してるのに、うまくいかないんです」
そう言った時、昨日の親友との会話が思い出された。
「努力してるのに、うまくいかないんだろうって思ったことない?」
親友がそう切り出した時、私は当然のように答えた。
「ああ、よくあるよ」
すると彼は少し微笑み、こう返した。
「それはな、悩みの正体をまだ見抜けてないからさ」
悩みとは何か。
それは、視界を曇らせる霧のようなもの。
「答えが見えない」と思うこと自体が、新たな迷いを生む。
「じゃあ、どうすれば?」と尋ねると、彼はこう言った。
「霧が晴れるのを待つんじゃなくて、歩みを止めないことだよ」
その言葉は、思いのほか心に響いた。
「失敗は成功の基」「性格は変わらない」
そんな言葉に、私は希望を感じない。
失敗は失敗でしかない。
けれど、「成功に至る過程」と考えれば、無駄にはならない。
性格も、固定されたものではない。
環境、出会う人々、経験—それらが重なれば、少しずつ変わることもある。
「それを話すのに、随分と時間がかかりましたね」
カウンセラーの言葉に、はっとする。
「見守ることにも意味があるんですよ」
日本人は、ルールを守ることに長けている。
それは誇るべき点だ。
だが、その意識が強すぎると、変化を拒む壁にもなる。
「私が変えられるものは何だろう?」
カウンセラーは、答えを急かさずにじっと待っている。
その姿勢に、少し安心感が芽生えた。
「鍵は、どの変数を選ぶかだと思うんです」
変えられないものに目を向けるのではなく、変えられるものを探す。
その扉を開けるのは、自分自身なのだから。
「霧が晴れるのを待つんじゃなくて、歩みを止めないこと…」
親友の言葉を繰り返す。
「乗り越える覚悟に変えること」
そうだ。
体調が悪いなら、それを受け入れた上で、今できることを考えればいい。
霧の向こうに何があるのか、それは進んだ者にしかわからない。
「今日は、ちゃんと話せました」
カウンセラーは静かに頷いた。
「沈黙の向こう側に、何かが動き出しましたね」
診察室を出ると、薄曇りだった空に、わずかに光が差し込んでいた。
今日も、一歩前へ。
沈黙の向こうへ。
霧の向こう側へ。
変数の扉を開けて。
