問いの先にある光

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すべては、「ありのまま」に生きることの難しさから始まった。

哲学会の帰り道、健太がふと言った。
「自分らしく生きることが、誰かを傷つけることもあるよな」。
その一言が、胸の奥にずっと引っかかっていた。

振り返れば、人生は「問い」の連続だった。
父の死、家の火事、癲癇の発症、母の浪費と死、そして遺産整理。
ようやく一息ついたと思えば、診断書の一枚が告げたのは「広汎性発達障害」。
それを不幸と呼ぶのは簡単だ。
でも今は、これらの出来事がなければ、今の自分は存在しなかったと確信している。

母の遺した古びた哲学書をめくるたび、あの重たい日々が浮かび上がる。
ページの間から立ち上る埃の匂いが、まるで彼女の声のように語りかけてくる。
「考え続けなさい」と。

その声に導かれるように、私は人生の方程式を解こうとしていた。
なぜ、生きるのか。
どう生きるのか。
そして、どこへ向かうのか。

その問いはやがて、社会へと向かう。

自由に語ることが、なぜこんなにも難しいのだろうか。
考えること、言葉にすること。
これこそが人間の証であり、尊厳のはずだ。
けれど現実には、意見を述べる者は「空気を読まない」とされ、無言の檻に閉じ込められる。

そんな世界に、生きる意味はあるのか?

今の社会には、目に見えない「貧困」が存在している。
経済的なことだけじゃない。
心の貧しさ――時間がない、余裕がない、愛がない。
家庭という最小単位でさえ、温もりは失われつつある。
親と子が目を合わせる時間さえなく、やがて他人になる。
その先にあるのは、沈黙と孤独だけ。

では、どうすればいいのか。

私は考え続けた。
哲学書を閉じ、空を見上げた。
春の夕暮れ、風に舞う桜の花びら。
自然は、何も語らずとも語っていた。

「時間を取り戻しなさい」と。

社会の在り方を変えるには、一人ひとりが立ち止まり、大切なものを見つめ直す必要がある。
忙しさに流されるのではなく、意思を持って日常を選び取ること。
その小さな選択が、やがて大きなうねりを生む。

そう気づいたとき、もう一つの問いが浮かんだ。

「夢を追うことは、無理なのか?」

社会は多様化しているようで、実際にはそうでもない。
変わったのは見た目だけだ。
根底にある価値観は、昔からあまり変わっていない。
そんな中で、自分だけが別の地図を持って生きている気がした。

でも、迷ってもいい。
霧の中を歩いてもいい。

羅針盤は、自分の内側にあるのだから。

たとえ答えが見えなくても、問い続けることに意味がある。
夢とは、手に入れるものではなく、追い続けるものだ。
社会の矛盾を目の当たりにしながらも、それでも前に進む勇気。
諦めるのではなく、見届ける覚悟。

私は、そういう人生を選びたい。

問いの先には、まだ見ぬ光がある。

その光を、私は信じている。

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