八月の朝は、空気さえも熱を帯びていた。
37歳になったばかりの僕は、いつもと変わらぬ足取りで職場へ向かう。
「なんで、こんなに暑い中働いてるんだろうな」
ふと浮かんだ問いに、心の奥から答えが返ってくる。
利益のためだけじゃない。
誰かのために、誰かが笑ってくれることが、どこかで自分の救いになる。
——そんな気がしているから。
けれど最近、僕の中にわずかな揺らぎがあった。
誕生日を迎えても、不安が先に胸を満たした。
職場でも、人間関係でも、何もかもが少し遠く感じられた。
人との距離を取るようになった。
いや、取らざるを得なかったのだ。
それでも、僕にはひとつだけ、続けているものがある。
どんなに疲れていても、夜更かししてゲームをしてしまった翌朝でも。
胸の奥で、リズムを刻む。
声に出さず、祈るように、自分に問いかけるのだ。
「大丈夫か? 今日も生きる意味はあるか?」
そして、そっと答える。
「うん、大丈夫。今日はまだ始まったばかりだ」
このリズムが崩れることもある。
眠い朝。
イライラが止まらない日。
誰とも話したくない夜。
でも、休んでもいい。
また始めればいいのだ。
誰にも気づかれなくても、自分だけは知っている。
祈っていることを。
まだ、ちゃんと“人間”でいられることを。
***
別の場所、別の時間。
空が白み始めるころ、一人の青年が目を覚ました。
カレンダーには「ストライキ中」と、青ペンで記されている。
社会というレールを一時降りた彼は、長い夏休みを選んでいた。
けれど、ただ休んでいるわけじゃない。
その朝も、お題目を唱える。
1時間、いや、この日は3時間。
額の汗が頬をつたう頃、彼はふと目を閉じる。
何かに勝ったわけじゃない。
ただ、少しだけ胸が軽くなった。
午後。
ペットボトルを片手に、近所を歩く。
神社の石段で蝉の抜け殻を見つけ、古本屋では昭和の将棋本に足を止める。
「こんな所に、こんなものが?」
そんな発見が、日々の景色を変えていく。
夜、将棋サークルの記憶が蘇る。
全敗だった。
けれど、不思議と悔しさはなかった。
対局後の雑談に、人生のヒントのような言葉が混ざっていたからだ。
「信じるって、何かを勝ち取るためだけじゃなく、立ち止まるためにもあるのかもな」
つぶやいた言葉は、誰にも届かない。
けれど、彼自身の心に染みた。
***
そして、地球から遥か彼方。
“裏切り星”と呼ばれる惑星では、少女リコが今日も生き延びている。
昼夜逆転の生活。
太陽は演出用のライトでしかない。
本音を語れば足元をすくわれる星。
リコは嘘を見抜く訓練を欠かさない。
視線のズレ。
声の揺れ。
呼吸の間。
「この人は、何を隠している?」
それが、彼女の唯一の防御だった。
“仕事”と呼ばれるのは形だけの会議と報告書。
責任を他人に押し付け、次々と人が消えていく。
「会社は変わらない。でも、負の遺産だけは増えていくんだよね」
誰かがそう言った。
リコは、その言葉を記録帳に残す。
けれど。
この星にも、楽しいは存在する。
リコは小さなポータブルゲームに夢中になる。
何度負けてもいい。
バッテリーが切れても、また始めればいい。
「楽しい。嬉しい」
その感情だけが、自分を肯定してくれる。
夜。
まぶたが重くなってきた頃、リコは今日の記録を書き込む。
「明日はないかもしれない。それでも、私は今日を選ぶ」
誰かのためじゃない。
自分の安心のために。
そして、自分だけは——自分を裏切らないために。
