空が、ほんの少しだけ赤く染まっていた。
午後五時の駅前。
誰かを待っている風でもなく、ただ歩道橋の影に立っている。
「明日が来ないって、どういうことだと思う?」
僕は独り言のようにつぶやいた。
けれど、風がそれを誰かに届けてくれる気がしていた。
朝起きて、カーテンを開けると、世界が止まっていた。
テレビは沈黙し、スマホは電波を拒絶していた。
「明日」がカレンダーから、こつ然と消えていた。
誰かに会いたいと思った。
でも、もう間に合わないかもしれないと思った。
だから走った。
通学路、並木道、坂道。
後悔なんて、もう贅沢な感情だった。
「今日が、最後の日らしいよ」
途中、誰かが言っていた。
半ば笑っていたその横顔は、どこかで見たことがある気がした。
でも、思い出せない。
思い出す時間さえ、もうなかったのだろう。
人は、明日があると思うから比べたり、悩んだり、後回しにする。
でも、明日がないと知ったとき、人はやっと今日に集中する。
──誰と話すか。
──誰と別れるか。
──誰を許すか。
──そして、誰を抱きしめるか。
公園で、見知らぬ親子が笑っていた。
父親の手にぶら下がる小さな子どもが、何度も「見ててよ」と言っていた。
ああ、これだ。
こういう時間が、ずっと守られるべきだった。
事故も、殺人も、差別も、心の闇も。
きっとどこかで、大人たちが「大人ぶって」見ないふりをしてきた。
僕も、そうだった。
誰かの苦しみに気づかないふりをした。
「明日」が消えることで、ようやく気づけた。
人は人でしか救えないってことを。
僕は思う。
大人は子どもを守る義務がある。
でも本当は、子どもが笑ってくれることで、大人が救われているのかもしれない。
子どもの笑顔が、大人への最後の問いかけだ。
夜になった。
誰かの家の明かりが、ぽつりと灯る。
僕は歩く。
まだ終わってない。
たとえ明日が来なくても、僕は、僕を生きている。
明日が来るなら、もう一度、あの子に会って「ごめんね」って言いたい。
