今日という日をどう生きるか
朝、窓の外は薄曇り。
コーヒーの香りが立ちのぼる中、理由もなく体が重かった。
「今日もまた、生きるだけで精一杯だな」と、息を吐く。
僕の人生は、きっと小さな点のような存在だ。明日が来る保証はない。
誰と会っても、派手に振る舞っても、その根っこは変わらない。
それでも、悔いのない人生を送る人に共通しているのは、誰かに本気で「伝える」ことだと思う。
今日という日は二度と戻らない。
明日を待つのか、それとも終わりを受け入れるのか。
僕は今日を、最後の日のように使う。
過去と未来の狭間で
悔いはないつもりだ。
けれど、ふと会話できる相手の顔が浮かぶと、それだけで十分だと思う自分がいる。
未来を考えれば考えるほど、過去の記憶が波のように押し寄せ、心をさらっていく。
「死んで償うべきなのか」
「それとも明日を信じるのか」
答えのない問いだけが、静かに胸の奥に沈殿している。
社会のルールと生きづらさ
「皆、苦しんだ」と言われた瞬間、胸の奥が氷のように冷えた。
どうして僕の声を、ちゃんと聞いてくれないのか。
頑固でも、間違っていても、声をあげたいのに。
多様性は確かに広がった。
けれど同時に、ルールや形式はより厳しくなった気がする。
発達障害の特性をもつ人にとって、それは時に息苦しさを増す。
当事者の実感がなければ、ルールも法律もただの飾りになり、むしろ人を傷つける。
才能とこだわり
僕は生きづらい。
だからこそ、才能を見つけなければ生き延びられない。
僕の才能は、伝える力、考える力、育成論。
この力を使って、独自の人材育成を形にしていきたい。
願わくば、僕の言葉が誰かの心を照らし、僕自身もまた救われるような日が来ますように。
※この日記の内容には、筆者自身の体験と感情が強く反映されています。
記述されている出来事や意見は、あくまで個人的な視点に基づくものであり、特定の団体・人物・制度を一方的に批判する意図はありません。
読まれる方によっては、不快に感じる表現が含まれる可能性もありますが、率直な記録として受け取っていただけますと幸いです。
