はじめに:僕について少しだけ
はじめまして。
僕は、「ことばフルネスチャンネル」というYouTubeチャンネルを運営している38歳、男性です。
最近は、YouTubeのショート動画を制作・投稿したり、noteに文章を書いたりして過ごしています。
趣味というほどのものはありませんが、日々の中でふと思考に耽ることや、散歩することが、僕にとっての「癒し」です。
日記を書こうと思った理由
ふと、思い出しました。
そういえば、2021年に広汎性発達障害の診断を受けてから、自分の言葉で気持ちを綴ったことがなかったな、と。
タイトルを見て、「今さら?」と思われる方もいるかもしれません。
でも、僕にとっては“今”がそのタイミングなんです。
この日記を、自分自身の発達と成長を見つめ直す場として綴っていこうと思います。
発達障害の前に訪れた癲癇の発作
話は2016年にさかのぼります。
当時、軽度の癲癇(てんかん)発作があり、1週間ほど入院。
回復のために1ヶ月の休業を取りました。
癲癇と診断されると、たとえ軽度でも2年間は運転ができません。
当時、製造業の工場で10年目を迎えていた僕は、自転車で片道40分の通勤を続けました。雨の日も、暑い夏も、寒い冬も。
大雨の日には、後輩が車で送ってくれたこともありました。小さな優しさが、とてもありがたかったです。
しかし、職場の理解はありませんでした。
「お前、本当に癲癇か?」と、心無い言葉を投げかけられたこともあります。
今でも忘れられません。あのときの悔しさは、今も僕の中に残っています。
就労支援との出会い、そして失望
退職後、ハローワークの職業訓練に通い、IT系の基礎を学びました。
Javaの勉強も始めましたが、正直に言えばまったく楽しくありませんでした。
「これ、本当に自分に向いてるのか?」と疑問を抱きながら日々を過ごしていたある日、知人から就労継続支援A型のチラシをもらいました。
聞いたことのない制度に戸惑いながらも、市役所へ相談へ行きました。
しかし説明は複雑で、「自立支援医療」と「就労支援の受給者証」は別物だということも初めて知りました。
さらに「相談支援事業所は自分で探してください」と一枚の紙を渡されただけ。
初めての人間にとっては、あまりに冷たい対応でした。
それでも僕は、調べて、電話をして、何とか道を開きました。
直接電話をかけたA型事業所の管理者の方に「君は偉い」と言われたとき、自分の行動がほんの少しだけ認められた気がして、救われました。
働き始めてからの現実
その後、就労継続支援A型の職場で、Web制作に携われると思って入社したのですが、現実は違いました。
「まずは独学で勉強して」と言われ、職場でも自宅でも2ヶ月間、誰からも教わらずにひたすら独学の日々。
同期は経験者だったため、すぐに仕事を任されていました。
僕はパソコンスキルも浅く、ただただ置いていかれるような感覚でした。
ようやく少し慣れた頃、突然業務を振られ、体調を崩して退職しました。
振り返ると、「身勝手」「不親切」「不誠実」…そんな言葉が浮かびます。
支援の現場は、必ずしも「支援」ではありませんでした。
助成金で運営される仕組み。経験の浅い支援員。不透明な運営。
そこに、利用者の人生を本気で支えようという姿勢は見られませんでした。
支援とは、本来なんだろう?
その後、就労移行支援にも通いましたが、そこには給料はありません。
形式的なグループワークや座学。
大手ほど「利用者を確保すればそれでいい」という空気を感じてしまいました。
もちろん、支援員の方々も大変です。
けれど、支援される側は、もっと大変です。
理解されないことに苦しみ、不安と戦いながら、それでも前に進もうとしています。
それを無視する支援は、支援とは呼べません。
終わりに:今、思うこと
支援の現場に失望し、「社会って、こんなに冷たいんだ」と感じることが何度もありました。
でも、それでも僕は、今こうして言葉を綴っています。
それは、自分自身を少しでも整理したいからであり、同じような思いをしている誰かに届くかもしれないと願っているからです。
誰かの価値を見極めることも、尊重することもせず、「枠」にはめ込むような社会に、僕たちは生きています。
でも、そんな社会でも、自分の声だけは手放したくない。
そんな想いで、この日記をこれからも綴っていきたいと思います。
※この日記の内容には、筆者自身の体験と感情が強く反映されています。
記述されている出来事や意見は、あくまで個人的な視点に基づくものであり、特定の団体・人物・制度を一方的に批判する意図はありません。
読まれる方によっては、不快に感じる表現が含まれる可能性もありますが、率直な記録として受け取っていただけますと幸いです。
