組織という「型」に殺される僕たちの日常
僕は今の社会に、静かな怒りを感じている。
「人の大切さ」を説きながらも、組織という箱に入ればルールが最優先され、個人の思考は無視される。
組織の駒として働きたい人にはそれでいいだろうが、それを嫌う人間にとっては、ただただ辛い毎日を生き延びるだけの苦行だ。
そして、僕自身もまたその構造の一部であるという現実が、重くのしかかっている。
毎日同じ会社へ行き、非効率な労働時間の中で働く。
その違和感が、僕の気持ちを少しずつ殺していく。
我慢を重ねるうちに、いつの間にか「楽しいこと」を自分の中から排除し始めてしまうのだ。
帰宅して「何かしたい」と思っても、体も心も動かないことがある。
気づけば横になり、スマホの光を顔に浴びているだけ。
時々、手が滑ってスマホを顔面に落とし、一人コントのような地味な笑いを取る。
誰も笑わない部屋で、「痛い」という言葉だけが虚しくこだまする。
そのまま眠りに落ち、休日は寝だめをし、非生産的なアニメやドラマを見て終わる。
人によっては酒に入り浸るだろうが、僕の場合はその中に「お題目を唱える」という儀式を組み込む日もある。
恋愛という幻想と、共有できない価値観
一人暮らしを謳歌している僕にとって、わざわざ恋愛に走る人たちは理解しがたい。
なぜ男女は恋愛関係になり、わざわざ傷つけあっていくのか。
生活維持のために無理やり対話を重ね、価値観を共有しようとするが、そもそも「価値観の共有」なんて土台無理な話だ。
性が違い、脳の作りも違い、生きてきた環境も違う。
それなのに、共有という幻想を追い求めて心が壊れていく人たちを見ると、不自然でしかないと感じる。
昭和のツケと、人材育成の真実
労働環境も同様だ。ルールへの固執と、現場の臨機応変さの欠如。
思考停止のような労働を強いられている時点で、組織としては終わっている。
人材育成を経験してきた僕の視点から言えば、大事なのは「価値観の共有」ではなく「情報の共有」だ。
報連相を後輩に強要して潰すような構図は、昔から積み上げてきた「昭和的な価値観」のツケが回ってきただけだ。
今、社会は無理やり変化を加えようとしているが、変化には必ず痛みが伴う。
その「痛みの度数」を理解している人こそが、本来の人材育成に向いているはずだ。
AIによる選別と、負の連鎖の中で掴むチャンス
社会はこれから、AIや自動化を優先させ、さらに人を比較・選別する構造へ向かっていくだろう。
中途半端に生きている中間層は消え、日本人の多くは弱者側へと転落していくかもしれない。
企業は能力と経験だけで人を切り分け、個人同士が互いにいがみ合う競争社会が容易に想像できる。
特に、投資も設備導入もままならない中小企業は、大手の下請けとして一生を終える悪いサイクルに陥るだろう。そんな人生でいいのだろうか。
自分がしたい仕事がない人は、流されるままでもいい。
だが、今に不満があり、夢がある人にとって、この混乱する現代社会はむしろ「チャンス」と言えるかもしれない。
負の連鎖が起きる時、それをチャンスと捉えるか、ダメだと諦めるか。
その一歩で、心の強度は決まる。便利な社会への進化が、僕らから何を奪い、何を突きつけるのか。
僕はただ、その恐れと可能性を静かに感じている。
