誰かを「育てる」って、どういうことなんだろう。 そして、「育つ」とは、どういうことなのだろう。
これまで誰かと深く関わるなかで、ずっと抱き続けてきた問いがあります。
一生懸命な人、壁にぶつかって悩んでいる人、自分に自信を持てずにいる人。
そうした人たちと対話をするなかで、私は気づきました。
彼らにとって真に必要なのは、手っ取り早い「アドバイス」ではないのかもしれない、と。
職人の現場で気づいた「教える」ことの限界
かつて職人の世界にいた頃、後輩を指導する立場になったことがあります。
最初は、自分自身の経験をもとに「こうしなよ」「それはダメだ」と、指示や答えをそのまま与えていました。
けれど、それではうまくいきませんでした。
言葉自体は届いているはずなのに、相手の行動も、表情も変わらない。
教えれば教えるほど、何かがすれ違っていく感覚がありました。
「なぜそうした?」問いかけが後輩の目を変えた瞬間
転機となったのは、指示を一度手放し、相手に「問いかける」アプローチに変えたことです。
・「なぜ、そのやり方を選んだの?」
・「本当は、どうしたいと思っている?」
そう問いかけたとき、後輩の目がはっきりと変わる瞬間がありました。
上から答えを教え込むのではなく、相手自身が内側にある答えにハッと気づく。
これこそが「育てる」ということの本質なのではないか、と感じた出来事でした。
指示や知識を押し付けるのではなく、相手の中にある「気づきのスイッチ」を一緒に探すこと。
それが、私にとっての「育てる」の原点です。
自立とは、放任ではなく「伴走」の先にあるもの
最近よく目にする「自立型」「自走型」という言葉。
私は、これを「ひとりで勝手にやらせる(放任)」ことだとは思いません。
むしろ、周囲が「一緒に考える姿勢」を見せ続け、安心できる土台があって初めて成り立つものです。
「自立」とは、何でも一人で抱え込んでやり切ることではありません。
「自分の足で立ちたい」と心から思える力を育むことなのだと思います。
孤立させるのではなく、大地にしっかりと根を張れるように。
誰かが隣で一緒に悩み、考えてくれた記憶の積み重ねが、人の自立を支える力になります。
いま、私がやっていきたいこと
私がこれから取り組んでいきたいのは、悩みを抱える高校生や若い社会人たちと、「自分らしく生きる軸」をともに見つけていく対話です。
一方的な指導ではなく、同じ目線で悩み、伴走し、心の底にある問いを丁寧な言葉に変えていく。
私自身もまだ模索の途中ですが、その試行錯誤のプロセスも含めて、ここで少しずつ言葉に残していきたいと考えています。
おわりに:あなたが「育てられた」と感じた言葉は何ですか?
あなたがこれまでに、誰かに「育てられた」と感じた経験はありますか?
それは、どんな言葉や関わりだったでしょうか。
答えに正解はありません。
けれど、一人ひとりの記憶の中にある小さな体験にこそ、人を育てるための大切なヒントが隠されている気がします。
もしよろしければ、あなたが大切にしている「育てられた言葉」を、ぜひ教えてください。
