僕という「点」が社会にどうつながるのか
僕はときどき考える。
「自分の存在って、社会にとって何の意味があるのだろう」と。
そんな問いは非生産的かもしれない。
でも、答えを求めずにはいられない。
A型事業所で働きながら、YouTubeで発信したり、noteで文章を書いたり、自分なりに「何かを残したい」と動いている。
だけど心の奥では常に「こんなことで本当に意味があるのか?」という不安が渦巻く。
組織の中で無力感が育つ仕組み
たとえば、現場で改善提案を出しても、それが上層部に届くことはほとんどない。
管理者の一存で止まり、現場の声はすぐにかき消されてしまう。
まるで将棋の「歩」のように、前に出ることすら拒まれる。
この構造は、単なる職場の問題ではない。
日本社会全体が「変化を拒む空気」をまとっている。
自分の意見を言えば「面倒くさい奴」と疎まれる。
ルールを守ることが美徳とされ、異なる価値観は排除される。
そうして一人また一人と、沈黙を選ぶようになる。
地方に残る「同調圧力」という見えない鎖
特に地方ではその傾向が顕著だ。
僕がかつて住んでいた県では、外から来た人間に冷たい目が向けられた。
空気を読むこと、余計なことを言わないことが最優先され、個性は潰されていく。
けれど、他県に移住したとき、世界が変わった。
そこでは「違っていて当然」という空気があった。
改善活動に取り組むと、仲間が自然と手を貸してくれた。
何より「君の考えは面白いね」と言ってくれた人がいた。
僕はそこで初めて、「この社会の中でも、役に立てる瞬間がある」と実感できた。
「社会不適合者」は社会の鏡かもしれない
思えば、僕が感じていた「社会不適合者としての自分」は、社会そのものが映し出した影でもあったのだと思う。
意見を封じる社会が、不適合者を生む。
変化を拒む空気が、疎外感を育てる。
ならば僕は、その空気に一石を投じたい。
たとえそれが小さな波紋にしかならなくても。
文章を書くこと、動画で考えを語ること、それが「対話」のきっかけになれば、それでいい。
僕が生きる意味は他者とつながる線を引くこと
「存在価値」は与えられるものではなく、自ら描くものだ。
僕はまだ不完全だし、未来に確証はない。
でも、目の前の他者と向き合いながら、自分の線を少しずつ伸ばしていく。それがやがて、誰かとつながる線になればいいと思う。
たとえ今は「点」にすぎなくても、その点がやがて線になり、社会に形を与えるかもしれないのだから。
