無知という可能性
「知らない」という状態は、時に恥として扱われる。
だが、本当にそうだろうか。
僕は思う。
無知であることは、何よりも自由で、何よりも創造的だ。
知ってしまえば、それは「知っている範囲」の中でしか考えられない。
でも、知らないことに直面した時、人は考えざるを得ない。
だからこそ、無知は思考の原点なのだ。
社会の中の違和感
僕は「普通」と言われるものが、どうしても信じられない。
学校でも、職場でも、「空気を読む」ことが大前提で「変わっているね」と言われれば、それはだいたいネガティブな意味になる。
けれど、その「普通」や「常識」は誰が決めたのか?
健常者と障がい者を分ける基準は?
なぜ「枠」を設けなければ安心できないのか?
思考停止の先に、やさしさや共感は育たないと思う。
思考は、孤独から始まる
人と話すのは楽しい。
けれど、僕が本当に「深く考える」のは、たいてい一人の時だ。
夜、誰もいない部屋でノートを広げて答えの出ない問いをただ見つめる。
それはとても孤独な作業だ。
けれど、それは僕にとって「生きている証拠」でもある。
「考えすぎ」と笑われたこともある。
でも、僕にとってはそれが「生きる」という行為そのものだった。
「生きづらさ」の正体
便利になった社会。
どこでも繋がれるSNS。
不自由の少ない都市生活。
それでも人が「生きづらい」と感じるのは「思考」よりも「同調」が評価されるからではないか。
違和感を口にすれば、浮いてしまう。
問いを立てれば、「深く考えすぎ」と言われる。
だが、それこそが僕たちの「生きづらさ」の根っこなのだと思う。
無知が生む問い、問いが生む希望
僕は完璧ではない。
知らないことも多い。
でも、その「知らなさ」こそが、僕の思考の出発点だ。
知識や情報が溢れる時代に、あえて「わからない」と言うことは、とても勇気がいる。
でも、問いを持ち続ける人こそ、社会を更新し未来を変える人だと信じている。
だから僕は、これからも考え続けたい。
世界のこと、自分のこと、人のこと。
無知を恥じるのではなく、無知に敬意を抱きながら。
