はじめに
「あなたは考えるタイプですか? それとも、あまり考えないタイプですか?」
この問いに、私は迷わず「考えるタイプ」だと答えます。
でも、考えるということは、時に救いになり、同時に呪いにもなります。
考えることで得られること、失うこと
私にとって“考える”とは、生きるための本能に近いものです。
不安から逃れようとするがゆえに、私は考え続けてしまう。
例えば、会社のルールや社会の仕組みに「本当にそれでいいのか?」と疑問を抱くこと。
それは、ある意味で希望かもしれません。
だけど、その疑問に答えが出ないと、自責やストレスへと変わっていく。
「考えすぎて動けない」。
これが、思考の副作用です。
社会と価値観の衝突
私が抱える価値観は、きっと「マイノリティ」です。
「社会をより良くしたい」という夢が、時には妄想にすら思えるほど。
なぜなら、社会の多数派(マジョリティ)は変化を嫌い、定まったルールを動かそうとはしないから。
対話は減り、「余計なことを言うな」という空気が支配していく。
とくに労働現場では、現場の声が無視されがちで、それが原因で多くの人が退職代行を使うようになっているのだと思います。
「考える」ことが許されない社会
私は医師に「考えるな」と言われたことがあります。
けれど、心は簡単に止まりません。
考えることが苦しいのは、自分の存在価値を問い始めてしまうから。
過去には、「思考そのものが自分を傷つける」ように感じたこともありました。
でも、それでも私は考えたい。
なぜなら「考えるからこそ、社会を変えられる」と信じているからです。
マニュアル社会がもたらす“思考停止”
現代の社会では、マニュアルやルールが整備されすぎて、考えることが敬遠される傾向にあります。
「考えなくても動ける仕組み」は便利だけど、それが人間を“考えない生き物”に変えてしまう。
歯を磨く。通勤する。買い物をする。
これらの何気ない行動も、すべて「考えること」から始まっている。
だから私は問いたいのです。
「仕事では改善を考えないのに、晩ご飯のメニューは考える。それで、本当にいいの?」
生きづらさの正体と、それでも考えるという選択
私は発達障害を抱えており、非言語コミュニケーションが苦手です。
そんな私にとって、この“文章を書くこと”が、唯一の「本音の居場所」になっています。
我慢を強要される社会では、本音は叩かれ、建前だけが評価される。
でも、私はその構造に抗いたい。
「考えること」がつらさを生むこともある。
でも、考えることができるからこそ、他者を理解しようとできる。
そして、自分自身を守る手段にもなる。
最後に:考える人が社会を変えていく
社会が変わるとき、それは「誰かが考えた結果」です。
だから私は考え続けたい。たとえそれが少数派の意見でも。
あなたも、今日から少しだけ「考えること」をしてみてください。
それはきっと、あなた自身や周囲を変える小さなきっかけになります。
「今の社会が一番良い」と思ってしまうことこそ、変化の可能性を閉ざす最大の敵です。
あなたは、考えますか? それとも、考えることをやめますか?
それを決めるのは、あなた自身です。
私は、考え続けます。
